Quote reblogged from (^ω^)やる夫のチラ裏やるお(^ω^) with 268 notes
たとえば、どこの国にも日本の武士のような覇権を争う武闘集団はいるが、武士の特徴も「ハイコンテクスト」にある。中国の兵法などの闘いの極意を見ていると、巧妙で勝つことにどん欲だ。人を騙すことも重要な戦術である。しかし武士の争いにおいて、騙し討ちは正義に反する。基本は正々堂々であることが求められる。勝つという結果よりも美学が重視される。
これは騙して勝っても「周り」から笑われるからだ。周りとは同時代の日本人だけではなく、系譜の連続性を基本とした先祖、末代の日本人である。共同体を重視した「恥」の文化はどの社会にもあるが、特別日本人は恥の美意識にこだわるのは、共同体が系譜的な連続性に支えられたハイコンテクストな社会であるからだ。
多民族間の抗争ならば、「系譜の連続性」だけにこだわっていられない負ければ、そこで民族が絶滅され系譜が絶たれる可能性がある。それに対して、日本の武士に争いは日本人内のものであって、系譜が連続することは疑いのないことだ。
だから武士にとって、自らの死も終わりではない。系譜の連続性の中の一つの出来事でしかない。極端にいえば(系譜という)演劇の中で死ぬようなものである。一つの重要な見せ場なのだ。観客は同時代の日本人であるとともに、先祖、末代の日本人である。そこに自らの死を魅せるための美学が生まれる。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり。」とはまさにこのような意味だろう。
争いも、系譜の連続性の中の演劇であり、そこに暗黙に美的なルールが生まれる。自らも、相手も、恥をかかしてまで勝負にこだわらない。武士の争いとは死を取り合うゲームとなる。
なぜ天皇はいまも日本人の社会秩序を支えているのか - pikarrrのブログ (via sqiz)
2011-09-04 (via gkojax-text)
わかりやすい。
Source: d.hatena.ne.jp
わかりやすい。